コウモリであるとはどのようなことか?

  • コウモリであるとはどのようなことか

コウモリにとって、コウモリであるというのはどういうことなのでしょうか?

コウモリといっても、複数のグループを行ったり来たりする八方美人のひとのことではなく、動物のコウモリです。

田舎だと夕方とかによく飛んでますよね。あのコウモリです。

そのコウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことなのでしょうか?

今回はそんな哲学のお話です。

 

  • どういうことなの

 

いきなりコウモリであるとはどのようなことかなんて言われても少し困るかと思います。

なので前置きとして、「人間であるとはどのようなことか」という話をしてみましょう。

まず「犬や猫などのペットにとって、人間とはどのような生き物か」というところから考えてみましょう。

「エサをくれる存在」「散歩に連れて行ってくれる存在」など、色々あると思います。

ではこの視点をペットから人間にスライドしてみましょう。

 

人間にとって、人間であるというのはどのようなことでしょうか?

 

私たちにとって、「人間である」と思う要素はどこでしょうか?

「2足歩行をして、言葉を喋り道具を扱う知恵と知能を持った生き物である」

とか「ホモ・サピエンスである」とか生物学的な要素はさておき、意識や思考、世界のとらえ方などの方面です。

「人間とは、哲学をする生き物である」

「自殺という行為をする唯一の生き物である」

「地球上で最も同種を殺した生物である」とか色々答えがあると思います。

そこに正解はないので、これを読んでいる読者の皆さんも自分なりの答えを見つけてみてください。

あなたなりの「これが人間である」という答えが見つかりましたか?

それが、「人間にとって、人間であるとはどのようなことか」という答えです。

ここまではなんとなくわかったでしょうか?

それでは、その「人間」の部分を「コウモリ」に置き換えてみてください。

 

コウモリにとってコウモリであるとはどのようなことでしょうか?

 

  • コウモリってなんだろう

「コウモリとは、脊椎動物亜門哺乳綱コウモリ目に属する動物の総称である」とか生物学的な話であったり、

「洞窟に住み、視覚が退化しているため超音波の反響で周囲の状況を把握する」といった生態的な話などではありません。

コウモリは自分のことをどう考えているのかというのがこの問いです。

 

ひとつ気をつけてほしいのは、たとえばあなたが人間の意識を持ったままコウモリになりきって考えるということではありません。

あなたが人間としての脳だけを保ったまま、コウモリの体でもってコウモリの生活をしてみたのなら

「空を飛ぶことは怖い」とか、「昆虫を食べるだなんて気持ち悪い」とか、

「洞窟の天井にぶら下がるなんて落ちないかな」など色々思うでしょう。

しかし、この問題で聞かれているのは、人間がコウモリになった場合の感情や印象、世界の捉え方ということではなく

「コウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことか」です。

つまり「コウモリの体とコウモリの脳を持った生物が、どのように世界を感じているのか」なのです。

たとえばコウモリは超音波によって周囲の状況を把握しています。

この反響はコウモリの視界に「見える」のか、それとも「聞こえる」のか。それとも別の感じ取り方をしているのでしょうか。

この哲学問題で問うているのは、そういったコウモリの視点からの主観です。

実際に解剖をしてみれば、反響した超音波をこの感覚器官が捉えて云々と生物学的に理解することができます。

しかし、「コウモリの意識、心」としては永遠に理解できないのです。

私たちはコウモリではありませんので、どう考えようとも結局は想像であり、明確な答えではありません。

コウモリは言葉を話せないので、どう世界をとらえているかということを教えてもらうことはできません。

もしかしたらコウモリは人間よりずっと複雑な意識を持ち、

「人間なんて空も飛べないし超音波も出せない劣等種」だなんて思っているかもしれません。

でもそれも想像であり、コウモリが本当にそう思っているかはわかりません。

結局、どうあっても正解はなく、永遠に理解できないのです。

 

  • 主観と客観

この論文を発表したアメリカの哲学者トマス・ネーゲルさんは、この説をもって主観と客観の間の葛藤を指摘しています。

主観と客観の間の葛藤とはまたややこしそうな言葉が出てきたので噛み砕きますと、

私たちはコウモリだけでなく、あらゆるものを見て客観的事実を得ることができます。

「あの人は笑顔だから楽しいと思っているんだな」とか「怒鳴っているから怒っているんだ」など、

客観的にその「もの」をとらえることができます。これが「主観と客観の間の葛藤」の「客観」にあたります。

しかし実はあの笑っている人はただの営業スマイルで内心は真逆のことを考えているかもしれませんし、

怒鳴っているように聞こえてもただ言葉が乱暴なだけかもしれません。

本当のことは本人しかわかりません。この内心にあたるのが「主観と客観の間の葛藤」の「主観」です。

同じ人間同士だって完全にわかりあえないという葛藤を抱えているのに、

人間がコウモリの主観(内心)を理解できるはずがありません。

その葛藤は壁として永遠に立ちはだかるのです。意識の主観的な性質は、生物科学にどう分解しようとも、

科学的な客観性の中には還元することができない問題であるのです。

これが、「コウモリであるとはどのようなことか」の本質です。

 

つまり、相互理解ってすごく難しいんですよってことです!

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