思考実験

ゼノンのパラドックスとは?

  • 飛んでいる矢は止まっている

これは、古代ギリシャの哲学者ゼノンが提唱したパラドックスのうちのひとつです。

ゼノンは物や生物の運動についてのパラドックスを多く残していて、

これはそのうちの「運動のパラドックス」という中に記されたものです。

 

  • 運動と静止

ゼノンは運動のパラドックスの中で

「目的点の半分の点まで到着するには、その前の半分の半分に着いていなければならない。

さらにその前の半分にも同様、と限りなく先に着いているべき点があり、一歩も進まない」と説いています。

その例として矢を用い、「飛んでいる矢は止まっている」という結論を出しました。

 

放たれた矢が1メートルを飛ぶためには、その半分である50センチの地点に到達しなければなりません。

ではその50センチの地点に到達するためには、その半分である25センチの部分に到達しなければなりません。

25センチの地点に到達するためには……と続けていくと25センチは12.5センチになり、

6.25センチになり、3.125センチになり…最終的には0.0000000…ミリとなります。

もうここまでマクロな世界になるとはじめから動いていないも同然です。

よって、飛んでいる矢は止まっているということになるのです。

わかりにくいでしょうか? 試しに矢の動線を書いてみるとわかるかもしれません。

1本の直線を引き、これを矢の動線とします。これを半分に、さらに半分にしていってみてください。

そのうち点になると思います。線は点が横に動いたものだとされているので、

線でない=点の運動がない=止まっているということになります。

線を引くためにペンを置いたそこから動いていないというような状態を想像してみると

「線は点が動いたものである」というのがわかるかと思います。

 

  • 後進と前進

この「飛んでいる矢は止まっている」という理論は運動のパラドックスのうち、後退型解釈に分類されるものです。

ある地点からひたすら距離や時間を半分にしていって最終的に「動いていない」という結論に至る方法です。

逆に「目標地点の半分に到達したとしても、この先の半分を進まねばならない。

そこに至るためにはそのさらに半分の…」と到達地点を限りなく先にすることで最終的に到達できない状態を作り出し、

結果的に「動いていない」という結論に至る方法を前進型解釈といいます。

前進型解釈の代表は「アキレスと亀」というパラドックスです。

そちらについては別の記事で解説しているので、そちらを参考にしてみてください。

不気味の谷現象とは?

  • 不気味の谷現象とは?

不気味の谷現象というのをご存知でしょうか?

不気味の谷現象とは、ロボット工学や美術などでよく用いられる用語で、

ロボットや彫刻など、リアルに作られた人の顔がなんだか不気味に見えるというものです。

また、そこから意味を広げて「動作はリアルだけど人間らしさがない」という違和感を指すこともあります。

 

  • 不気味に感じる谷

これはロボット工学者の日本人が提唱したものです。

のちにロボット工学のパイオニアとなる彼は「ロボットの外観や動作が人間らしいほど好感的、共感的に感じ、

親しみをおぼえる人が多くなっていきますが、ある時点で突然強い嫌悪感に変わります。

そこからさらにロボットの外見や動作をリアルに近づけ、

本物の人間の外観や動作と見分けがつかなくなると再びより強い好感に転じ、

人間と同じような親近感を覚えるようになる」と考えました。

このロボットのリアルらしさと好感度の推移をグラフにするとちょうどV字のようになっていることから、

不気味の谷現象と名付けられました。

 

  • 閲覧注意

不気味の谷現象というのは、実験に基づいた科学的な説ではありません。

あくまで予想や推測によって立てられた理論なので非科学的であると非難されてきました。

しかし、映画やゲームなど、キャラクタービジネスの世界では、この理論が重要な問題として捉えられてきました。

 

代表的なものでは、2001年に発表されたCGアニメ映画「ファイナルファンタジー」です。

当時のCG技術を駆使し、圧倒的な美麗CGによる映像でしたが、キャラクターが汗をかかない、

目線が明後日の方向を見ている、唇の動きが台詞とずれているなど、

人間らしさがまったくなく違和感をおぼえる部分が非常に多く、非常に奇怪なものとして視聴者の目に映りました。

 

他にも、マネキン人形などは成形技術が発達したおかげで

精巧なマネキン人形「スーパーリアルマネキン」を作ることができるようになりました。

しかしリアルすぎるマネキン人形は見ている人に不気味さを感じさせ、

マネキン人形への忌避感からマネキン人形に着せた服が売れないという問題が発生し、

スーパーリアルマネキンは衰退したというエピソードがあります。

これもまた、不気味の谷現象によるものです。

 

  • 谷を乗り越えろ

映画業界やゲーム、アニメ業界などはこういった不気味の谷現象に悩まされてきました。

リアルに近づければ不気味の谷現象がやってくる、

デフォルメすれば「リアルさがない」と視聴者やプレイヤーに思われてしまうという板挟みにあってきたのです。

その解決方法として採用されるようになったのが「モーションキャプチャー」というシステムです。

モーションキャプチャーは人の動きをデジタル的に記録する技術で、

全身に貼り付けたマーカーによってデジタル的に処理し、取り込むものです。

このモーションキャプチャーという技術を使い、

キャラクターに人間らしい動きをさせることで違和感をなくし、不気味の谷現象を乗り越えることができました。

こうして、人間の動作に関してはだいぶ乗り越えることができるようになったのですが、

顔の造形の分野ではまだまだ課題が多いというのが現状です。

グラフィック技術の限界による「似せても似せきれない部分」によって不気味の谷に落ちる危険がまだまだあるのです。

アニメやゲームのフィギュアなどではキャラクターの造形が大きく崩れたことで不気味の谷現象が発生し、

元のキャラクターの原型をとどめなくなってしまったものがあります。

こういった不気味の谷に陥ったフィギュアを指して「邪神」などと揶揄されることがあります。

 

  • 科学的に証明しよう

不気味の谷現象が提唱され、人々へ認知が広まったことで脳科学の分野などで不気味の谷現象の解明が行われるようになりました。

その結果、脳の「対象の外見を認知する部分」と「対象の動きを認知する部分」で齟齬が起き、

処理不能になったことで起きるものだと判明しました。

ともあれ本格的な解明はまだまだこれからで、今後の更なる研究に期待が高まります。

ヘンペルのカラスとは?

  • 論証のひとつ

ヘンペルのカラスとは、物事を対偶論法によって解決する際に生じる疑問をカラスを用いた例え話を使って説明したものです。

「なんのことだ?」と混乱するかもしれませんが、ひとつずつ解説していきたいと思います。

 

  • 対偶

対偶とは、「AならばBである」という定義の反対「BでないならAでない」の定義を指します。

たとえば「三角形は3つの角からできている」という定義があります。

これは「3つの角がなければ三角形でない」と同じことです。

4つの角があればそれは四角形ですし、5つの角があれば五角形というものです。

四角形も五角形も、当然「三角形」ではありませんよね。これが対偶と言われる理論です。

 

ヘンペルのカラスも同じ対偶の理論です。

「カラスは黒い」ということを証明するは、

その対偶である「世の中に存在するすべての黒くないものはカラスでない」を証明すれば成り立ちます。

世の中の黒くないものを全部調べ、その中にカラスがなければ対偶の証明によって「カラスが黒い」ということが成り立ちます。

 

  • 調べてみた

ということで、「黒くないものはカラスでない」を証明するため、

世界中の学者たちは世の中すべての黒くないものを調べることにしました。

ちなみに黒いものがカラスか海苔かゴマかイカスミかということは関係ないので調べる必要はありません。

そして、黒くないものの中にカラスがいないということを確認し、かくして「黒くないものはカラスでない」ということを証明しました。

対偶の証明によって「カラスは黒い」ということも成り立ったので、「カラスは黒い」ということが証明されました。

お気づきでしょうか。

カラスを1羽も調べることなく、「カラスは黒い」ということを証明しているということに。

「カラスが黒いってことを調べるのに、どうして肝心のカラスでなく、カラスじゃないものを調べているの?」という素朴な疑問に行き当たると思います。

対偶がどうとか難しいことなんてわからない私たちには「おかしくないか?」と思うことでしょう。

そうであるのに、対偶論法を当てはめるとこんな疑問点など無視して「カラスは黒いことが証明された」となってしまっているのです。

 

  • おかしい点

この理論をおかしいと思ってしまう原因はいくつかあります。

ひとつは、「世の中すべての黒くないものを調べた」という無理難題を達成しているという点にあります。

生物から物体、化学物質あらゆるものをすべて調べるという不可能をなしています。

もうひとつは、たとえばアルビノ種のカラスなど、黒くないカラスという存在は実在しています。

そういった存在を考えれば、「黒くないものはカラスでない」という理論は間違っているわけです。

このギャップが私たちに違和感を感じさせている原因です。

 

ヘンペルのカラスは、対偶論法が生み出す現実との差異を指摘したものです。

もっとも、フィクションで引用される時は「AはBであるということは、BでないものはAでない」という対偶論法のたとえとして用いられることが多く、

ヘンペルのカラスの本質である対偶論法と現実の差異については無視されることが多いです。

ヤマアラシのジレンマとは?

  • ハリネズミのジレンマともいいます

「ヤマアラシのジレンマ」をご存知でしょうか?

アニメ「エヴァンゲリオン」で有名になったあれです。

「エヴァンゲリオン」で引用されたその内容は、

要約すると「寄り添いあいたいが、寄り添うと互いに傷つけてしまう」というなんとも微妙に間違った解釈の上、

そこから傷の舐め合いや共依存がどうこうという話に広がっていきます。

違います。なんですかその表面だけさらったような内容は!!!

と憤慨極まりないので、今回は正しいヤマアラシのジレンマを覚えていただこうと思います。

 

  • 元は寓話

ヤマアラシのジレンマはドイツの哲学者ショーペンハウアーさんが考えた寓話を

心理学者のフロイトさんが論じて名付けられたものです。

要約して日本語訳すると以下の通りになります。

 

ある冬の寒い日、たくさんのヤマアラシたちが暖を求めて群がったが、

互いのトゲによって刺されるので、離れざるを得なくなった。

しかし再び寒さが彼らを駆り立てて、同じことが起きた。

結局、何度も群れては離れを繰り返し、互いに多少の距離を保つのが最適であるのを発見した。

これと同様に、社会における必要に駆り立てられ、人間というヤマアラシを集まらせるが、

多くのトゲや互いに性格の不一致によって不快を感じさせられる。

結局、交流において許容できるような最適の距離感を発見し、それがいわゆる礼儀作法やマナーである。

それを逸脱する者は、英語では「to keep their distance」(距離を保て)と乱暴に言われる。

この取り決めによって、初めて互いに暖を取る必要が適度に満たされ、互いの針で刺されることも無くなる。

とは言え、自らの内に暖かみを持つ人間は、人々の輪の外に居ることを好むであろう。

そうすれば互いに針で突いたり突かれたりすることも無いのだから。

 

おわかりでしょうか。

「エヴァンゲリオン」で引用されたヤマアラシのジレンマは最初の1行しか使っていないということに。

「お互いに適度な距離を保てば心地よく過ごせる」というのがまったく違う意味として引用されているということに。

心理学を学んだ人間としては憤慨ものですよ!!

 

  • ジレンマ

要はヤマアラシのジレンマというものは、

「自己の確立」と「相手との一体感」という2つの欲求の対立によって発生した板挟みの状況を回避するために

どちらにも偏らない適度な距離を保てばいいという話なのです。

そこまで踏み込んでしまえば「エヴァンゲリオン」におけるヤマアラシのジレンマとは、

「人類補完計画」の「みんな一緒の存在になろう」という他者との一体感という目的、

そこからの独立というテーマにつながってくるのですが……そういう意味で引用しているわけではないんですよね。

ということで、これを読んでいる皆様、本当のヤマアラシのジレンマというものを覚えられたでしょうか?

しっかり覚えてください。そして正しい意味で引用してください。

 

ちなみに、本物のヤマアラシは実際どう暖を取っているのかというと、頭などの針のない部分をくっつけ合ったりしているようです。

ワニのパラドックスとは?

  • ワニのパラドックス、もしくはワニのジレンマ

これは、「ワニのジレンマ」ともいわれるものです。

ジレンマとは対立する状況により板挟みになった状態を指し、パラドックス(矛盾)のうちのひとつです。

 

このパラドックスは「不思議の国のアリス」の作者で知られるルイス・キャロルが創作したものです。

どういうものか順に解説していきましょう。

 

  • 人殺しのワニ

ナイル川の河岸で人食いワニが子供を人質にとり、

その母親に「自分がこれからあることを実行する。何をするか言い当てたら、子供を食わないが、不正解なら食う」と言いました。

これに対し、母親が「あなたはその子を食べるでしょう」といった場合、

ワニはジレンマによってどうしようもなくなってしまうというものです。

 

ワニがこれから子供を食べようとしていた場合、「子供を食べる」ということを実行しなければなりません。

ですが、「子供を食べるでしょう」という母親の予想は正解しているので子供は食べてはなりません。

「あることを実行する」というルール上、子供を食べなければなりませんが、

「正解したら子供を食べない」というルールによって子供は食べてはいけません。

食べなければならないが、食べてはいけない。このジレンマによってワニはどうしようもなくなってしまいます。

 

ワニが「子供を食わない」ということを決め、それを実行しようとしていた場合を考えてみましょう。

ワニは「絶対に食べない!」という誓いを立てました。

そして母親の予想は「子供を食べるでしょう」というものでした。

母親の予想は外れていたので、ワニは子供を食べなければなりません。

しかし、「絶対に食べない!」と決めているので食べることはできません。

食べないが、食べなければならない。このジレンマによってワニはまたどうしようもなくなってしまいます。

 

  • 類例

 似たようなものにこういうものがあります。

「ある橋を渡って向こう側に行くには、その目的を報告しなければならず、

それが嘘だった場合には絞首刑に処せられることになっている。

真実であるならば絞首刑にしてはならない。

ところがある男が「私は絞首刑になるためにやってきたのだ」と言ったため、どうしていいかわからなくなった」。

絞首刑になるためにやってきたというのは嘘偽りない目的です。

なので処刑人はこの真実を言っている男を絞首刑にすることはできません。

しかし、この男の望み通り、彼を絞首刑にするためには彼が嘘をついていなければなりません。

ですが、彼の「絞首刑になりたい」というのは嘘ではありません。

どうすればいいのでしょう。これもまたジレンマのひとつです。

 

ジレンマといえば「ヤマアラシのジレンマ」が代表的なものだと思います。

「ヤマアラシのジレンマ」については別の記事で解説していますので、そちらを読んでください。

しかしこちらの「ワニのパラドックス」もそこそこ有名なものですので、ぜひ覚えてくださいね。

はげ山のパラドックスとは?

  • 突然ですが

突然ですが、薄毛に悩まされていませんか?

バーコードからM字、500円玉…色々な形状のハゲがあると思います。

原因も年齢だったり体質だったり遺伝だったりストレスだったり、様々な要因がありますよね。

今回は、そんな薄毛のお悩みを解決する(かもしれない)哲学の話です。

 

  • つるつる

 「髪の毛が1本もないひとはハゲである」。

これは間違いなく世界の真理です。

どこからどう見てもハゲです。かわいそうですが、ハゲです。

では、このハゲのひとに髪の毛を1本足したらどうでしょうか?

いやそれでもハゲです。これが2本、3本となってもハゲです。10本になってもハゲでしょう。

かわいそうなのでもう1本足しましょう。11本になってもハゲです。

ハゲって文字がこの文章中に何回出て来たか数えたくなるくらいハゲですね。

ちなみにここまでで10回です。

ではもう1本。もう1本。もう1本……ずーーーっと足していきましょう。

頭皮をびっしり埋め尽くすほどの髪の毛が生えました。でもこの人はハゲです。

え? どう見てもフサフサじゃないかって?

ではフサフサとツルツルの間ってどこにありましたか?

明確に、何本目で「ツルツル」から「フサフサ」になりましたか? 50本目? 100本目?

答えられないでしょう。境界は曖昧です。

これが「はげ山のパラドックス」といわれるものです。

髪の毛がない人をハゲと定義しているけど、その「髪の毛がない」って具体的に何本から?

というこの問題は言葉の定義に対して疑問を投げかける哲学です。

「髪の毛が1本もない人はハゲである」という前提に

「髪の毛が1本もない人に髪の毛を1本足してもハゲである」という前提を繰り返し適用していくことで、

「人間は全員ハゲである」という逆説的な結論が出せます。

そう、みんなハゲなのです。全員ハゲだから怖くない。

みんな薄毛なのだから、あなたも薄毛で悩まなくてもいいんです。

さぁ、これで薄毛の悩みは解決しましたよ!

似たようなものに「砂山のパラドックス」があります。

詳しくは砂山のパラドックスを解説している別の記事に任せますが、薄毛の例で言い換えると以下のような哲学です。

「髪の毛がフサフサな人がいる」という前提に

「髪の毛がフサフサな人から髪の毛を1本抜いてもフサフサである」という前提をぶつけます。

1本むしりましょう。薄毛の人には悲鳴をあげたくなる光景かもしれませんが、また1本いってみましょう。

もう1本。もう1本。ついには頭皮に1本もなくなってしまいました。

でもこの人は髪の毛がフサフサの人です。どう見てもハゲている?

では何本目から「フサフサ」から「ツルツル」になりましたか?

…というような、「はげ山のパラドックス」が足し算なら「砂山のパラドックス」は引き算のようなものです。

つまり「砂山のパラドックス」の例でいうと、

たとえ頭皮に1本も毛がなくともあなたはフサフサなのだと言い換えることができます。

さぁ、これで薄毛の悩みが解決してしまいました。

 

よって、「はげ山のパラドックス」と、ついでに「砂山のパラドックス」を合わせて薄毛に悩む皆さんはこう言えます。

皆ハゲで自分だけフサフサだと!!

コウモリであるとはどのようなことか?

  • コウモリであるとはどのようなことか

コウモリにとって、コウモリであるというのはどういうことなのでしょうか?

コウモリといっても、複数のグループを行ったり来たりする八方美人のひとのことではなく、動物のコウモリです。

田舎だと夕方とかによく飛んでますよね。あのコウモリです。

そのコウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことなのでしょうか?

今回はそんな哲学のお話です。

 

  • どういうことなの

 

いきなりコウモリであるとはどのようなことかなんて言われても少し困るかと思います。

なので前置きとして、「人間であるとはどのようなことか」という話をしてみましょう。

まず「犬や猫などのペットにとって、人間とはどのような生き物か」というところから考えてみましょう。

「エサをくれる存在」「散歩に連れて行ってくれる存在」など、色々あると思います。

ではこの視点をペットから人間にスライドしてみましょう。

 

人間にとって、人間であるというのはどのようなことでしょうか?

 

私たちにとって、「人間である」と思う要素はどこでしょうか?

「2足歩行をして、言葉を喋り道具を扱う知恵と知能を持った生き物である」

とか「ホモ・サピエンスである」とか生物学的な要素はさておき、意識や思考、世界のとらえ方などの方面です。

「人間とは、哲学をする生き物である」

「自殺という行為をする唯一の生き物である」

「地球上で最も同種を殺した生物である」とか色々答えがあると思います。

そこに正解はないので、これを読んでいる読者の皆さんも自分なりの答えを見つけてみてください。

あなたなりの「これが人間である」という答えが見つかりましたか?

それが、「人間にとって、人間であるとはどのようなことか」という答えです。

ここまではなんとなくわかったでしょうか?

それでは、その「人間」の部分を「コウモリ」に置き換えてみてください。

 

コウモリにとってコウモリであるとはどのようなことでしょうか?

 

  • コウモリってなんだろう

「コウモリとは、脊椎動物亜門哺乳綱コウモリ目に属する動物の総称である」とか生物学的な話であったり、

「洞窟に住み、視覚が退化しているため超音波の反響で周囲の状況を把握する」といった生態的な話などではありません。

コウモリは自分のことをどう考えているのかというのがこの問いです。

 

ひとつ気をつけてほしいのは、たとえばあなたが人間の意識を持ったままコウモリになりきって考えるということではありません。

あなたが人間としての脳だけを保ったまま、コウモリの体でもってコウモリの生活をしてみたのなら

「空を飛ぶことは怖い」とか、「昆虫を食べるだなんて気持ち悪い」とか、

「洞窟の天井にぶら下がるなんて落ちないかな」など色々思うでしょう。

しかし、この問題で聞かれているのは、人間がコウモリになった場合の感情や印象、世界の捉え方ということではなく

「コウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことか」です。

つまり「コウモリの体とコウモリの脳を持った生物が、どのように世界を感じているのか」なのです。

たとえばコウモリは超音波によって周囲の状況を把握しています。

この反響はコウモリの視界に「見える」のか、それとも「聞こえる」のか。それとも別の感じ取り方をしているのでしょうか。

この哲学問題で問うているのは、そういったコウモリの視点からの主観です。

実際に解剖をしてみれば、反響した超音波をこの感覚器官が捉えて云々と生物学的に理解することができます。

しかし、「コウモリの意識、心」としては永遠に理解できないのです。

私たちはコウモリではありませんので、どう考えようとも結局は想像であり、明確な答えではありません。

コウモリは言葉を話せないので、どう世界をとらえているかということを教えてもらうことはできません。

もしかしたらコウモリは人間よりずっと複雑な意識を持ち、

「人間なんて空も飛べないし超音波も出せない劣等種」だなんて思っているかもしれません。

でもそれも想像であり、コウモリが本当にそう思っているかはわかりません。

結局、どうあっても正解はなく、永遠に理解できないのです。

 

  • 主観と客観

この論文を発表したアメリカの哲学者トマス・ネーゲルさんは、この説をもって主観と客観の間の葛藤を指摘しています。

主観と客観の間の葛藤とはまたややこしそうな言葉が出てきたので噛み砕きますと、

私たちはコウモリだけでなく、あらゆるものを見て客観的事実を得ることができます。

「あの人は笑顔だから楽しいと思っているんだな」とか「怒鳴っているから怒っているんだ」など、

客観的にその「もの」をとらえることができます。これが「主観と客観の間の葛藤」の「客観」にあたります。

しかし実はあの笑っている人はただの営業スマイルで内心は真逆のことを考えているかもしれませんし、

怒鳴っているように聞こえてもただ言葉が乱暴なだけかもしれません。

本当のことは本人しかわかりません。この内心にあたるのが「主観と客観の間の葛藤」の「主観」です。

同じ人間同士だって完全にわかりあえないという葛藤を抱えているのに、

人間がコウモリの主観(内心)を理解できるはずがありません。

その葛藤は壁として永遠に立ちはだかるのです。意識の主観的な性質は、生物科学にどう分解しようとも、

科学的な客観性の中には還元することができない問題であるのです。

これが、「コウモリであるとはどのようなことか」の本質です。

 

つまり、相互理解ってすごく難しいんですよってことです!

メアリーの部屋とは?

  • 色のない世界で色を知る

「ドーーーン!」でおなじみ、江頭2:50さんの名言にこういうものがあります。

「生まれたときから目が見えない人に、空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ?こんな簡単なことさえ言葉に出来ない俺は芸人失格だよ」

 

それでは、実際に伝えたらどうなるのでしょうか?

今回はそんな思考実験の話です。

 

  • 灰色のメアリー

 白黒の部屋で生まれ育ったメアリーがいる。

メアリーは生まれてからずっとこの部屋を1歩も出たことがない。

つまりメアリーは灰色以外の色を知らず、色というものを見たことがない。

しかしメアリーは白黒のテレビや白黒の本などを読んで世界中の出来事を学んでいる。

特に視神経に関する専門知識は一流であり、「視覚のスペシャリスト」とも呼べる知識を持っている。

光の特性、眼球の構造、網膜の仕組み、視神経や視覚野のつながり、

どういう時に人が「赤い」という言葉を使うのか、「青い」という言葉を使うのか、など、

メアリーは視覚に関する物理的事実をすべて知っている。

そんなメアリーが白黒の部屋から解放され、外の世界に出た時、メアリーはなにか学ぶであろうか?

 

 これが「メアリーの部屋」(マリーの部屋)です。

実際にやったら人権問題ですので、頭の中で考えてみてください。

 

「色というものはなにか」ということを知っているメアリーが、

実際にそれを体験した(色というものを見た)時、メアリーは何か新しいことを学ぶでしょうか?

「りんごは赤い」ということを知っているメアリーが、外の世界で初めてりんごを見た時、何かを得ることがあるでしょうか?

 

この問題はクオリアに関わっています。

クオリアとは、意識や意思、感情、感覚といった精神的なもの、

また経験から学んだ印象、概念すべてをひっくるめた自我のこと、つまり「こころ」のことです。

メアリーが何か新しいことを学ぶとしたら、クオリアが存在するということになります。

この思考実験を提唱したジャクソンさんによれば、その新しく学ぶだろうということこそがクオリアであると言っています。

「りんごは赤い」と知っているメアリーがその「赤」を実際に見た時、「赤く見える」というクオリアを獲得します。

「赤く見える」というクオリアがあるというのであれば、

当然「青く見える」「黄色く見える」など様々なクオリアが存在することになり、

「クオリアというものは実在する」ということを実証になります。

 

試しに考えてみてください。灰色の部屋から出て、メアリーは何かを学ぶでしょうか?

きっと、たいていの人は「メアリーは実感を通して経験を得た」というように「メアリーは何かを学んだ」と答えると思います。

この実感や経験といったものはクオリアが起こす現象です。

さて、ここでひとつ問題です。

メアリーは灰色の部屋で「視覚」というものに対してあらゆる知識を得ていました。

視覚に関する知識は完璧であり、視覚を専門とする博士の中で1番の知識を持っていました。

しかし、灰色の部屋から出たことで「何かを学んだ」とするなら、メアリーの知識は不完全であったということになります。

つまり、「心とは神経や伝達物質の反応の結果であり、精神や心といったものは存在しない」

と唱えている物理主義者たちの否定となります。

メアリーが外に出て何かを学んだのなら、灰色の部屋で学んだ物理的知識では十分でなかったということですからね。

 

  • 見えた色

さて、冒頭の「生まれたときから目が見えない人に~」の名言ですが、実際はどうなのでしょう。

メアリーの部屋を考える上で参考になる事例を持ってきました。

それは、先天盲の人、つまり生まれつき目の見えない人が手術によって視覚というものを得た時のエピソードです。

目が見えるようになってまず感じることは「まぶしい」ということだそうです。

そしてその「まぶしさ」の差、わかりやすくいうと「明るい色」「暗い色」といった明暗で色を判別するそうです。

そして徐々に「この明るい色は赤というのだな」「この暗い色は青というのだ」

というふうに明暗と色の名前を結びつけていくのだそうです。

 

  • クオリアの有無

さて、クオリアが存在するということがメアリーの部屋によって証明されたとするならば、

逆に「クオリアがまったく存在しない人間」というものは存在するのでしょうか?

 

それについての思考実験は「哲学的ゾンビ」を参照してみてください。

哲学的ゾンビとは?

  • 自分から見た他人

あなたは「自分以外の他人が何を考えているか」を気にしたことがあるでしょうか?

喜怒哀楽といった感情から、「今日の夕飯はあれにしよう」と具体的な思考まで、

他人が何を考えているか」を考えたことがあるでしょうか?

「もしかしたら自分以外は精巧なロボットなんじゃないか…」なんて考えが思い浮かんだことはありますか?

今回はそういった心の哲学を紹介します。

 

  • 意識を持たない人間

「自分以外の他人はすべて精巧に作られたロボットではないか」

「自分以外の他人は巧妙にプログラムされたことを実行しているだけでそこに意思などないのではないか」

こういった考え方を「哲学的ゾンビ」といいます。

ちょっと難しく言うと、哲学的ゾンビとは「クオリアを持たない人間」とされます。

クオリアとは、意識や意思、感情、感覚といった精神的なものすべてをひっくるめた自我のこと、つまり「こころ」のことです。

「こころ」が死んでいるが物理的、科学的に動いている屍ということで、ホラー映画から借用し「哲学的ゾンビ」と呼ばれています。

 

ここで注意しておきたいのが、哲学的ゾンビとは、単に冷血であったり感情が希薄な人間のことではありません。

また、何かしらの精神疾患を指す医学用語でもありません。

哲学的ゾンビとは概念的なものです。

傍目から見れば人間らしく怒りもするし笑いもします。

悲しむこともあれば、時には熱心に議論することだってあります。

ですがそこには「こころ」(クオリア)が存在しないのです。

SFジャンルの映画や漫画に出てくる精巧なアンドロイドはまるで人間そっくりですが、そこに「こころ」はありません。

「こういう時にはこうする」というのを何度も学習し、複雑な感情を表現しようとしているにすぎません。

そういった機能を持った生身の人間が哲学的ゾンビです。

「脳みそだけプログラムの生身の人間」というとわかりやすいかもしれませんね。

 

たとえば、ご飯時になったとしましょう。

あなたはそろそろ「お腹が減ったな」と思ってご飯を食べようとします。

しかし哲学的ゾンビは「お昼時だからご飯を食べる」という概念に従って行動します。

そこに「お腹が減った」という意識はありません。

「朝の7時になったら朝食をとる」

「昼の12時になったら昼食をとる」

「夜の7時になったら夕飯をとる」

というシステムがプログラムされているからそうするだけなのです。

ご飯を食べようと思い、キッチンに向かったあなたはそこでゴキブリを見たとします。

大騒ぎすると思いますが、それはゴキブリが気持ち悪い生き物で恐怖の対象であり、「怖い」という感情があるから騒ぐのです。

しかし哲学的ゾンビは「ゴキブリを見た人間は一般的に恐怖心から騒ぐ」

「恐怖心ゆえの行動とは、震えたり悲鳴をあげたり逃げ出そうとすることだ」という概念を実行するだけです。

「ゴキブリは怖い」「気持ち悪くて怖い」という意識はそこにはないのです。

一般的に「そう」だから「そう」するというのが哲学的ゾンビの思考です。

 

どうでしょうか?

ちょっと怖くなってきませんか?

もしかして、この文章もインターネットの向こうでAIが自動生成している文章かもしれませんよ?

六次の隔たりとは?

  • 関連の関連の関連の

ウィキペディアを適当に開いて読むのが趣味だっていう変わった人は身近にいませんか?

1ページ読んだ後に関連するページを開いてそこから関連するページを…と順番に開いていって、

気がついたら最初に読んでいたページからぜんぜん違うジャンルのページを読んでいたり…。

ネットサーフィンなんて言葉がありますが、まさにデータの海を波から波に乗るがごとくポンポン移動していくんですよね。

今回は、そんなネットサーフィンに関連した仮説をご紹介しましょう。

 

  • 六次の隔たり

それがこの「六次の隔たり」というものです。

なんかすごくかっこいいバリア系魔法のような名前ですが、これは1990年代に提唱された仮説です。

「どんなものでも全ての人や物事は6ステップ以内で繋がっている」という仮説です。

たとえば、Aさんは何人かの知り合いを持っています。

Aさんの知り合いであるBさんは、Aさんの知り合いでない知り合いを持っています。

簡単に言えば「友達の友達」というやつです。

また、Bさんの知り合いであるCさんは、Bさんの知り合いでない知り合い(友達の友達)を持っていて、

Cさんの知り合いであるDさんは…と7人目のGさんまで続けます。

Aさんは「友達の友達の友達の友達の友達の友達」をたずねれば、

Aさんがその人生でまったく出会うことのないだろう遠い人とも知り合いになれるのです。

 

ちょっとわかりにくいですか? では、小話をしましょう。

Aさんは「芸能人と顔見知りになりたい!」と思ったとします。

でも芸能人なんて一般市民のAさんがとうてい知り合えるはずがありません。

儚い夢に涙するAさんは今日も友人のBさんと2人で愚痴るのでした。

次の日、Bさんは友達のCさんに「昨日、友達がさぁ」と芸能人と知り合いたいと愚痴っていたAさんの話をしました。

Bさんから話を聞き、芸能人なんて高嶺の花だよねとその日は盛り上がり、Cさんは翌日、いつもどおり大学のダンスサークルに参加しました。

Cさんが参加しているダンスサークルの先輩のDさんはいろんな方面に顔がきいて、数々の学校に顔が利く人です。

そのDさんがある日、大学でOBの先輩のEさんに出会いました。

Eさんは創作ダンスで大会で優勝し、業界からスカウトされた人です。

Eさんは芸能界でデビューするためにスクールに通っていました。

そこの指導者のFさんはとあるアイドルの元マネージャーで、当時担当していた芸能人Gさんともオフで飲みに行く仲だったのです!

おわかりでしょうか? Aさんから芸能人(Gさん)までつながる関係性があることに気付きましたでしょうか?

これが六次の隔たりです。どんなものでも間に仲介者の仲介者の…と挟めば6ステップ以内につながることができます。

 

  • イッツ・ア・スモールワールド

これは1967年に行われた実験です。

アメリカ、ネブラスカ州オマハの住人160人を無作為に選び、「同封した写真の人物はボストン在住の株式仲買人です。

この顔と名前の人物をご存知でしたらその人の元へこの手紙をお送り下さい。

この人を知らない場合は貴方の住所氏名を書き加えた上で、

貴方の友人の中で知っていそうな人にこの手紙を送って下さい」という文面の手紙をそれぞれに送りました。

その結果、42通が実際に届き、その42通が届くまでに経た人数の平均は5.83人だったのです。

この実験は六次の隔たりの証明としてよく引用されます。

しかし、実際には25%くらいしか手紙は届いておらず、

75%も手紙をロストしていることなどを考えるとこれを六次の隔たりの証明に使うにはちょっと疑問に感じる点が多いのが欠点ですね。

 

  • 本当にたどり着けるか?

今、このページの執筆をしている最中ですが、本当にそうなのか試しにやってみたいと思います。

休憩ついでにコーヒーを飲みながら哲学の記事を書いているので、ウィキペディアを使い、「コーヒー」から「哲学」にたどり着いてみたいと思います。

この時のルールは、ページ内にリンクが貼ってあるページに飛ぶこと、目標地点である「哲学」に近そうな単語を選んでいくことです。

まずウィキペディアから「コーヒー」のページを開きます。

色々単語にリンクが貼ってありますが、まずは手始めに「コーヒー豆」を開きます。

「コーヒー豆はを菓子としてチョコレートでコーティングする(同ページから引用)」なんて面白いことが書いてあるのでここから「チョコレート」に飛んでみましょう。

「チョコレートはカカオからできている」(同ページから引用)とありますので「カカオ」のページを開いてみましょう。

「カカオの由来はギリシャ語で神の食べ物」とかっこよさそうなことが書いてあり、

「ギリシャ」にリンクが貼ってあるので「ギリシャ」に飛びましょう。ギリシャの国のページが出てきました。

「ギリシャ自体は民主主義、西洋哲学、近代オリンピック、西洋文学[2]、歴史学、政治学、主要な科学的及び数学的原理、悲劇及び喜劇などのドラマの発祥地である」(同ページから引用)

お? 「西洋哲学」だなんて単語が出てきましたよ?

では「西洋哲学」のページに行ってみましょう。

「このページでは西洋哲学、すなわち西洋で発展した哲学について解説する」(同ページから引用)

「哲学」という単語が出てきましたね。もちろん「哲学」をクリックします。

 

はい! 「コーヒー」から「哲学」にたどり着くことができました!

 

コーヒー、コーヒー豆、チョコレート、カカオ、ギリシャ、西洋哲学、哲学と経て、

「コーヒー」と「哲学」なんて全然関係ない単語同士がつながってしまいました!

これが六次の隔たりです。

 

どうですか?

これを読んでいる皆様も、ウィキペディアを使って六次の隔たりゲームをしてみるのもいかがでしょう?