
- 色のない世界で色を知る
「ドーーーン!」でおなじみ、江頭2:50さんの名言にこういうものがあります。
「生まれたときから目が見えない人に、空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ?こんな簡単なことさえ言葉に出来ない俺は芸人失格だよ」
それでは、実際に伝えたらどうなるのでしょうか?
今回はそんな思考実験の話です。
- 灰色のメアリー
白黒の部屋で生まれ育ったメアリーがいる。
メアリーは生まれてからずっとこの部屋を1歩も出たことがない。
つまりメアリーは灰色以外の色を知らず、色というものを見たことがない。
しかしメアリーは白黒のテレビや白黒の本などを読んで世界中の出来事を学んでいる。
特に視神経に関する専門知識は一流であり、「視覚のスペシャリスト」とも呼べる知識を持っている。
光の特性、眼球の構造、網膜の仕組み、視神経や視覚野のつながり、
どういう時に人が「赤い」という言葉を使うのか、「青い」という言葉を使うのか、など、
メアリーは視覚に関する物理的事実をすべて知っている。
そんなメアリーが白黒の部屋から解放され、外の世界に出た時、メアリーはなにか学ぶであろうか?
これが「メアリーの部屋」(マリーの部屋)です。
実際にやったら人権問題ですので、頭の中で考えてみてください。
「色というものはなにか」ということを知っているメアリーが、
実際にそれを体験した(色というものを見た)時、メアリーは何か新しいことを学ぶでしょうか?
「りんごは赤い」ということを知っているメアリーが、外の世界で初めてりんごを見た時、何かを得ることがあるでしょうか?
この問題はクオリアに関わっています。
クオリアとは、意識や意思、感情、感覚といった精神的なもの、
また経験から学んだ印象、概念すべてをひっくるめた自我のこと、つまり「こころ」のことです。
メアリーが何か新しいことを学ぶとしたら、クオリアが存在するということになります。
この思考実験を提唱したジャクソンさんによれば、その新しく学ぶだろうということこそがクオリアであると言っています。
「りんごは赤い」と知っているメアリーがその「赤」を実際に見た時、「赤く見える」というクオリアを獲得します。
「赤く見える」というクオリアがあるというのであれば、
当然「青く見える」「黄色く見える」など様々なクオリアが存在することになり、
「クオリアというものは実在する」ということを実証になります。
試しに考えてみてください。灰色の部屋から出て、メアリーは何かを学ぶでしょうか?
きっと、たいていの人は「メアリーは実感を通して経験を得た」というように「メアリーは何かを学んだ」と答えると思います。
この実感や経験といったものはクオリアが起こす現象です。
さて、ここでひとつ問題です。
メアリーは灰色の部屋で「視覚」というものに対してあらゆる知識を得ていました。
視覚に関する知識は完璧であり、視覚を専門とする博士の中で1番の知識を持っていました。
しかし、灰色の部屋から出たことで「何かを学んだ」とするなら、メアリーの知識は不完全であったということになります。
つまり、「心とは神経や伝達物質の反応の結果であり、精神や心といったものは存在しない」
と唱えている物理主義者たちの否定となります。
メアリーが外に出て何かを学んだのなら、灰色の部屋で学んだ物理的知識では十分でなかったということですからね。
- 見えた色
さて、冒頭の「生まれたときから目が見えない人に~」の名言ですが、実際はどうなのでしょう。
メアリーの部屋を考える上で参考になる事例を持ってきました。
それは、先天盲の人、つまり生まれつき目の見えない人が手術によって視覚というものを得た時のエピソードです。
目が見えるようになってまず感じることは「まぶしい」ということだそうです。
そしてその「まぶしさ」の差、わかりやすくいうと「明るい色」「暗い色」といった明暗で色を判別するそうです。
そして徐々に「この明るい色は赤というのだな」「この暗い色は青というのだ」
というふうに明暗と色の名前を結びつけていくのだそうです。
- クオリアの有無
さて、クオリアが存在するということがメアリーの部屋によって証明されたとするならば、
逆に「クオリアがまったく存在しない人間」というものは存在するのでしょうか?
それについての思考実験は「哲学的ゾンビ」を参照してみてください。