ワニのパラドックスとは?

  • ワニのパラドックス、もしくはワニのジレンマ

これは、「ワニのジレンマ」ともいわれるものです。

ジレンマとは対立する状況により板挟みになった状態を指し、パラドックス(矛盾)のうちのひとつです。

 

このパラドックスは「不思議の国のアリス」の作者で知られるルイス・キャロルが創作したものです。

どういうものか順に解説していきましょう。

 

  • 人殺しのワニ

ナイル川の河岸で人食いワニが子供を人質にとり、

その母親に「自分がこれからあることを実行する。何をするか言い当てたら、子供を食わないが、不正解なら食う」と言いました。

これに対し、母親が「あなたはその子を食べるでしょう」といった場合、

ワニはジレンマによってどうしようもなくなってしまうというものです。

 

ワニがこれから子供を食べようとしていた場合、「子供を食べる」ということを実行しなければなりません。

ですが、「子供を食べるでしょう」という母親の予想は正解しているので子供は食べてはなりません。

「あることを実行する」というルール上、子供を食べなければなりませんが、

「正解したら子供を食べない」というルールによって子供は食べてはいけません。

食べなければならないが、食べてはいけない。このジレンマによってワニはどうしようもなくなってしまいます。

 

ワニが「子供を食わない」ということを決め、それを実行しようとしていた場合を考えてみましょう。

ワニは「絶対に食べない!」という誓いを立てました。

そして母親の予想は「子供を食べるでしょう」というものでした。

母親の予想は外れていたので、ワニは子供を食べなければなりません。

しかし、「絶対に食べない!」と決めているので食べることはできません。

食べないが、食べなければならない。このジレンマによってワニはまたどうしようもなくなってしまいます。

 

  • 類例

 似たようなものにこういうものがあります。

「ある橋を渡って向こう側に行くには、その目的を報告しなければならず、

それが嘘だった場合には絞首刑に処せられることになっている。

真実であるならば絞首刑にしてはならない。

ところがある男が「私は絞首刑になるためにやってきたのだ」と言ったため、どうしていいかわからなくなった」。

絞首刑になるためにやってきたというのは嘘偽りない目的です。

なので処刑人はこの真実を言っている男を絞首刑にすることはできません。

しかし、この男の望み通り、彼を絞首刑にするためには彼が嘘をついていなければなりません。

ですが、彼の「絞首刑になりたい」というのは嘘ではありません。

どうすればいいのでしょう。これもまたジレンマのひとつです。

 

ジレンマといえば「ヤマアラシのジレンマ」が代表的なものだと思います。

「ヤマアラシのジレンマ」については別の記事で解説していますので、そちらを読んでください。

しかしこちらの「ワニのパラドックス」もそこそこ有名なものですので、ぜひ覚えてくださいね。

はげ山のパラドックスとは?

  • 突然ですが

突然ですが、薄毛に悩まされていませんか?

バーコードからM字、500円玉…色々な形状のハゲがあると思います。

原因も年齢だったり体質だったり遺伝だったりストレスだったり、様々な要因がありますよね。

今回は、そんな薄毛のお悩みを解決する(かもしれない)哲学の話です。

 

  • つるつる

 「髪の毛が1本もないひとはハゲである」。

これは間違いなく世界の真理です。

どこからどう見てもハゲです。かわいそうですが、ハゲです。

では、このハゲのひとに髪の毛を1本足したらどうでしょうか?

いやそれでもハゲです。これが2本、3本となってもハゲです。10本になってもハゲでしょう。

かわいそうなのでもう1本足しましょう。11本になってもハゲです。

ハゲって文字がこの文章中に何回出て来たか数えたくなるくらいハゲですね。

ちなみにここまでで10回です。

ではもう1本。もう1本。もう1本……ずーーーっと足していきましょう。

頭皮をびっしり埋め尽くすほどの髪の毛が生えました。でもこの人はハゲです。

え? どう見てもフサフサじゃないかって?

ではフサフサとツルツルの間ってどこにありましたか?

明確に、何本目で「ツルツル」から「フサフサ」になりましたか? 50本目? 100本目?

答えられないでしょう。境界は曖昧です。

これが「はげ山のパラドックス」といわれるものです。

髪の毛がない人をハゲと定義しているけど、その「髪の毛がない」って具体的に何本から?

というこの問題は言葉の定義に対して疑問を投げかける哲学です。

「髪の毛が1本もない人はハゲである」という前提に

「髪の毛が1本もない人に髪の毛を1本足してもハゲである」という前提を繰り返し適用していくことで、

「人間は全員ハゲである」という逆説的な結論が出せます。

そう、みんなハゲなのです。全員ハゲだから怖くない。

みんな薄毛なのだから、あなたも薄毛で悩まなくてもいいんです。

さぁ、これで薄毛の悩みは解決しましたよ!

似たようなものに「砂山のパラドックス」があります。

詳しくは砂山のパラドックスを解説している別の記事に任せますが、薄毛の例で言い換えると以下のような哲学です。

「髪の毛がフサフサな人がいる」という前提に

「髪の毛がフサフサな人から髪の毛を1本抜いてもフサフサである」という前提をぶつけます。

1本むしりましょう。薄毛の人には悲鳴をあげたくなる光景かもしれませんが、また1本いってみましょう。

もう1本。もう1本。ついには頭皮に1本もなくなってしまいました。

でもこの人は髪の毛がフサフサの人です。どう見てもハゲている?

では何本目から「フサフサ」から「ツルツル」になりましたか?

…というような、「はげ山のパラドックス」が足し算なら「砂山のパラドックス」は引き算のようなものです。

つまり「砂山のパラドックス」の例でいうと、

たとえ頭皮に1本も毛がなくともあなたはフサフサなのだと言い換えることができます。

さぁ、これで薄毛の悩みが解決してしまいました。

 

よって、「はげ山のパラドックス」と、ついでに「砂山のパラドックス」を合わせて薄毛に悩む皆さんはこう言えます。

皆ハゲで自分だけフサフサだと!!

コウモリであるとはどのようなことか?

  • コウモリであるとはどのようなことか

コウモリにとって、コウモリであるというのはどういうことなのでしょうか?

コウモリといっても、複数のグループを行ったり来たりする八方美人のひとのことではなく、動物のコウモリです。

田舎だと夕方とかによく飛んでますよね。あのコウモリです。

そのコウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことなのでしょうか?

今回はそんな哲学のお話です。

 

  • どういうことなの

 

いきなりコウモリであるとはどのようなことかなんて言われても少し困るかと思います。

なので前置きとして、「人間であるとはどのようなことか」という話をしてみましょう。

まず「犬や猫などのペットにとって、人間とはどのような生き物か」というところから考えてみましょう。

「エサをくれる存在」「散歩に連れて行ってくれる存在」など、色々あると思います。

ではこの視点をペットから人間にスライドしてみましょう。

 

人間にとって、人間であるというのはどのようなことでしょうか?

 

私たちにとって、「人間である」と思う要素はどこでしょうか?

「2足歩行をして、言葉を喋り道具を扱う知恵と知能を持った生き物である」

とか「ホモ・サピエンスである」とか生物学的な要素はさておき、意識や思考、世界のとらえ方などの方面です。

「人間とは、哲学をする生き物である」

「自殺という行為をする唯一の生き物である」

「地球上で最も同種を殺した生物である」とか色々答えがあると思います。

そこに正解はないので、これを読んでいる読者の皆さんも自分なりの答えを見つけてみてください。

あなたなりの「これが人間である」という答えが見つかりましたか?

それが、「人間にとって、人間であるとはどのようなことか」という答えです。

ここまではなんとなくわかったでしょうか?

それでは、その「人間」の部分を「コウモリ」に置き換えてみてください。

 

コウモリにとってコウモリであるとはどのようなことでしょうか?

 

  • コウモリってなんだろう

「コウモリとは、脊椎動物亜門哺乳綱コウモリ目に属する動物の総称である」とか生物学的な話であったり、

「洞窟に住み、視覚が退化しているため超音波の反響で周囲の状況を把握する」といった生態的な話などではありません。

コウモリは自分のことをどう考えているのかというのがこの問いです。

 

ひとつ気をつけてほしいのは、たとえばあなたが人間の意識を持ったままコウモリになりきって考えるということではありません。

あなたが人間としての脳だけを保ったまま、コウモリの体でもってコウモリの生活をしてみたのなら

「空を飛ぶことは怖い」とか、「昆虫を食べるだなんて気持ち悪い」とか、

「洞窟の天井にぶら下がるなんて落ちないかな」など色々思うでしょう。

しかし、この問題で聞かれているのは、人間がコウモリになった場合の感情や印象、世界の捉え方ということではなく

「コウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことか」です。

つまり「コウモリの体とコウモリの脳を持った生物が、どのように世界を感じているのか」なのです。

たとえばコウモリは超音波によって周囲の状況を把握しています。

この反響はコウモリの視界に「見える」のか、それとも「聞こえる」のか。それとも別の感じ取り方をしているのでしょうか。

この哲学問題で問うているのは、そういったコウモリの視点からの主観です。

実際に解剖をしてみれば、反響した超音波をこの感覚器官が捉えて云々と生物学的に理解することができます。

しかし、「コウモリの意識、心」としては永遠に理解できないのです。

私たちはコウモリではありませんので、どう考えようとも結局は想像であり、明確な答えではありません。

コウモリは言葉を話せないので、どう世界をとらえているかということを教えてもらうことはできません。

もしかしたらコウモリは人間よりずっと複雑な意識を持ち、

「人間なんて空も飛べないし超音波も出せない劣等種」だなんて思っているかもしれません。

でもそれも想像であり、コウモリが本当にそう思っているかはわかりません。

結局、どうあっても正解はなく、永遠に理解できないのです。

 

  • 主観と客観

この論文を発表したアメリカの哲学者トマス・ネーゲルさんは、この説をもって主観と客観の間の葛藤を指摘しています。

主観と客観の間の葛藤とはまたややこしそうな言葉が出てきたので噛み砕きますと、

私たちはコウモリだけでなく、あらゆるものを見て客観的事実を得ることができます。

「あの人は笑顔だから楽しいと思っているんだな」とか「怒鳴っているから怒っているんだ」など、

客観的にその「もの」をとらえることができます。これが「主観と客観の間の葛藤」の「客観」にあたります。

しかし実はあの笑っている人はただの営業スマイルで内心は真逆のことを考えているかもしれませんし、

怒鳴っているように聞こえてもただ言葉が乱暴なだけかもしれません。

本当のことは本人しかわかりません。この内心にあたるのが「主観と客観の間の葛藤」の「主観」です。

同じ人間同士だって完全にわかりあえないという葛藤を抱えているのに、

人間がコウモリの主観(内心)を理解できるはずがありません。

その葛藤は壁として永遠に立ちはだかるのです。意識の主観的な性質は、生物科学にどう分解しようとも、

科学的な客観性の中には還元することができない問題であるのです。

これが、「コウモリであるとはどのようなことか」の本質です。

 

つまり、相互理解ってすごく難しいんですよってことです!

メアリーの部屋とは?

  • 色のない世界で色を知る

「ドーーーン!」でおなじみ、江頭2:50さんの名言にこういうものがあります。

「生まれたときから目が見えない人に、空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ?こんな簡単なことさえ言葉に出来ない俺は芸人失格だよ」

 

それでは、実際に伝えたらどうなるのでしょうか?

今回はそんな思考実験の話です。

 

  • 灰色のメアリー

 白黒の部屋で生まれ育ったメアリーがいる。

メアリーは生まれてからずっとこの部屋を1歩も出たことがない。

つまりメアリーは灰色以外の色を知らず、色というものを見たことがない。

しかしメアリーは白黒のテレビや白黒の本などを読んで世界中の出来事を学んでいる。

特に視神経に関する専門知識は一流であり、「視覚のスペシャリスト」とも呼べる知識を持っている。

光の特性、眼球の構造、網膜の仕組み、視神経や視覚野のつながり、

どういう時に人が「赤い」という言葉を使うのか、「青い」という言葉を使うのか、など、

メアリーは視覚に関する物理的事実をすべて知っている。

そんなメアリーが白黒の部屋から解放され、外の世界に出た時、メアリーはなにか学ぶであろうか?

 

 これが「メアリーの部屋」(マリーの部屋)です。

実際にやったら人権問題ですので、頭の中で考えてみてください。

 

「色というものはなにか」ということを知っているメアリーが、

実際にそれを体験した(色というものを見た)時、メアリーは何か新しいことを学ぶでしょうか?

「りんごは赤い」ということを知っているメアリーが、外の世界で初めてりんごを見た時、何かを得ることがあるでしょうか?

 

この問題はクオリアに関わっています。

クオリアとは、意識や意思、感情、感覚といった精神的なもの、

また経験から学んだ印象、概念すべてをひっくるめた自我のこと、つまり「こころ」のことです。

メアリーが何か新しいことを学ぶとしたら、クオリアが存在するということになります。

この思考実験を提唱したジャクソンさんによれば、その新しく学ぶだろうということこそがクオリアであると言っています。

「りんごは赤い」と知っているメアリーがその「赤」を実際に見た時、「赤く見える」というクオリアを獲得します。

「赤く見える」というクオリアがあるというのであれば、

当然「青く見える」「黄色く見える」など様々なクオリアが存在することになり、

「クオリアというものは実在する」ということを実証になります。

 

試しに考えてみてください。灰色の部屋から出て、メアリーは何かを学ぶでしょうか?

きっと、たいていの人は「メアリーは実感を通して経験を得た」というように「メアリーは何かを学んだ」と答えると思います。

この実感や経験といったものはクオリアが起こす現象です。

さて、ここでひとつ問題です。

メアリーは灰色の部屋で「視覚」というものに対してあらゆる知識を得ていました。

視覚に関する知識は完璧であり、視覚を専門とする博士の中で1番の知識を持っていました。

しかし、灰色の部屋から出たことで「何かを学んだ」とするなら、メアリーの知識は不完全であったということになります。

つまり、「心とは神経や伝達物質の反応の結果であり、精神や心といったものは存在しない」

と唱えている物理主義者たちの否定となります。

メアリーが外に出て何かを学んだのなら、灰色の部屋で学んだ物理的知識では十分でなかったということですからね。

 

  • 見えた色

さて、冒頭の「生まれたときから目が見えない人に~」の名言ですが、実際はどうなのでしょう。

メアリーの部屋を考える上で参考になる事例を持ってきました。

それは、先天盲の人、つまり生まれつき目の見えない人が手術によって視覚というものを得た時のエピソードです。

目が見えるようになってまず感じることは「まぶしい」ということだそうです。

そしてその「まぶしさ」の差、わかりやすくいうと「明るい色」「暗い色」といった明暗で色を判別するそうです。

そして徐々に「この明るい色は赤というのだな」「この暗い色は青というのだ」

というふうに明暗と色の名前を結びつけていくのだそうです。

 

  • クオリアの有無

さて、クオリアが存在するということがメアリーの部屋によって証明されたとするならば、

逆に「クオリアがまったく存在しない人間」というものは存在するのでしょうか?

 

それについての思考実験は「哲学的ゾンビ」を参照してみてください。

哲学的ゾンビとは?

  • 自分から見た他人

あなたは「自分以外の他人が何を考えているか」を気にしたことがあるでしょうか?

喜怒哀楽といった感情から、「今日の夕飯はあれにしよう」と具体的な思考まで、

他人が何を考えているか」を考えたことがあるでしょうか?

「もしかしたら自分以外は精巧なロボットなんじゃないか…」なんて考えが思い浮かんだことはありますか?

今回はそういった心の哲学を紹介します。

 

  • 意識を持たない人間

「自分以外の他人はすべて精巧に作られたロボットではないか」

「自分以外の他人は巧妙にプログラムされたことを実行しているだけでそこに意思などないのではないか」

こういった考え方を「哲学的ゾンビ」といいます。

ちょっと難しく言うと、哲学的ゾンビとは「クオリアを持たない人間」とされます。

クオリアとは、意識や意思、感情、感覚といった精神的なものすべてをひっくるめた自我のこと、つまり「こころ」のことです。

「こころ」が死んでいるが物理的、科学的に動いている屍ということで、ホラー映画から借用し「哲学的ゾンビ」と呼ばれています。

 

ここで注意しておきたいのが、哲学的ゾンビとは、単に冷血であったり感情が希薄な人間のことではありません。

また、何かしらの精神疾患を指す医学用語でもありません。

哲学的ゾンビとは概念的なものです。

傍目から見れば人間らしく怒りもするし笑いもします。

悲しむこともあれば、時には熱心に議論することだってあります。

ですがそこには「こころ」(クオリア)が存在しないのです。

SFジャンルの映画や漫画に出てくる精巧なアンドロイドはまるで人間そっくりですが、そこに「こころ」はありません。

「こういう時にはこうする」というのを何度も学習し、複雑な感情を表現しようとしているにすぎません。

そういった機能を持った生身の人間が哲学的ゾンビです。

「脳みそだけプログラムの生身の人間」というとわかりやすいかもしれませんね。

 

たとえば、ご飯時になったとしましょう。

あなたはそろそろ「お腹が減ったな」と思ってご飯を食べようとします。

しかし哲学的ゾンビは「お昼時だからご飯を食べる」という概念に従って行動します。

そこに「お腹が減った」という意識はありません。

「朝の7時になったら朝食をとる」

「昼の12時になったら昼食をとる」

「夜の7時になったら夕飯をとる」

というシステムがプログラムされているからそうするだけなのです。

ご飯を食べようと思い、キッチンに向かったあなたはそこでゴキブリを見たとします。

大騒ぎすると思いますが、それはゴキブリが気持ち悪い生き物で恐怖の対象であり、「怖い」という感情があるから騒ぐのです。

しかし哲学的ゾンビは「ゴキブリを見た人間は一般的に恐怖心から騒ぐ」

「恐怖心ゆえの行動とは、震えたり悲鳴をあげたり逃げ出そうとすることだ」という概念を実行するだけです。

「ゴキブリは怖い」「気持ち悪くて怖い」という意識はそこにはないのです。

一般的に「そう」だから「そう」するというのが哲学的ゾンビの思考です。

 

どうでしょうか?

ちょっと怖くなってきませんか?

もしかして、この文章もインターネットの向こうでAIが自動生成している文章かもしれませんよ?

六次の隔たりとは?

  • 関連の関連の関連の

ウィキペディアを適当に開いて読むのが趣味だっていう変わった人は身近にいませんか?

1ページ読んだ後に関連するページを開いてそこから関連するページを…と順番に開いていって、

気がついたら最初に読んでいたページからぜんぜん違うジャンルのページを読んでいたり…。

ネットサーフィンなんて言葉がありますが、まさにデータの海を波から波に乗るがごとくポンポン移動していくんですよね。

今回は、そんなネットサーフィンに関連した仮説をご紹介しましょう。

 

  • 六次の隔たり

それがこの「六次の隔たり」というものです。

なんかすごくかっこいいバリア系魔法のような名前ですが、これは1990年代に提唱された仮説です。

「どんなものでも全ての人や物事は6ステップ以内で繋がっている」という仮説です。

たとえば、Aさんは何人かの知り合いを持っています。

Aさんの知り合いであるBさんは、Aさんの知り合いでない知り合いを持っています。

簡単に言えば「友達の友達」というやつです。

また、Bさんの知り合いであるCさんは、Bさんの知り合いでない知り合い(友達の友達)を持っていて、

Cさんの知り合いであるDさんは…と7人目のGさんまで続けます。

Aさんは「友達の友達の友達の友達の友達の友達」をたずねれば、

Aさんがその人生でまったく出会うことのないだろう遠い人とも知り合いになれるのです。

 

ちょっとわかりにくいですか? では、小話をしましょう。

Aさんは「芸能人と顔見知りになりたい!」と思ったとします。

でも芸能人なんて一般市民のAさんがとうてい知り合えるはずがありません。

儚い夢に涙するAさんは今日も友人のBさんと2人で愚痴るのでした。

次の日、Bさんは友達のCさんに「昨日、友達がさぁ」と芸能人と知り合いたいと愚痴っていたAさんの話をしました。

Bさんから話を聞き、芸能人なんて高嶺の花だよねとその日は盛り上がり、Cさんは翌日、いつもどおり大学のダンスサークルに参加しました。

Cさんが参加しているダンスサークルの先輩のDさんはいろんな方面に顔がきいて、数々の学校に顔が利く人です。

そのDさんがある日、大学でOBの先輩のEさんに出会いました。

Eさんは創作ダンスで大会で優勝し、業界からスカウトされた人です。

Eさんは芸能界でデビューするためにスクールに通っていました。

そこの指導者のFさんはとあるアイドルの元マネージャーで、当時担当していた芸能人Gさんともオフで飲みに行く仲だったのです!

おわかりでしょうか? Aさんから芸能人(Gさん)までつながる関係性があることに気付きましたでしょうか?

これが六次の隔たりです。どんなものでも間に仲介者の仲介者の…と挟めば6ステップ以内につながることができます。

 

  • イッツ・ア・スモールワールド

これは1967年に行われた実験です。

アメリカ、ネブラスカ州オマハの住人160人を無作為に選び、「同封した写真の人物はボストン在住の株式仲買人です。

この顔と名前の人物をご存知でしたらその人の元へこの手紙をお送り下さい。

この人を知らない場合は貴方の住所氏名を書き加えた上で、

貴方の友人の中で知っていそうな人にこの手紙を送って下さい」という文面の手紙をそれぞれに送りました。

その結果、42通が実際に届き、その42通が届くまでに経た人数の平均は5.83人だったのです。

この実験は六次の隔たりの証明としてよく引用されます。

しかし、実際には25%くらいしか手紙は届いておらず、

75%も手紙をロストしていることなどを考えるとこれを六次の隔たりの証明に使うにはちょっと疑問に感じる点が多いのが欠点ですね。

 

  • 本当にたどり着けるか?

今、このページの執筆をしている最中ですが、本当にそうなのか試しにやってみたいと思います。

休憩ついでにコーヒーを飲みながら哲学の記事を書いているので、ウィキペディアを使い、「コーヒー」から「哲学」にたどり着いてみたいと思います。

この時のルールは、ページ内にリンクが貼ってあるページに飛ぶこと、目標地点である「哲学」に近そうな単語を選んでいくことです。

まずウィキペディアから「コーヒー」のページを開きます。

色々単語にリンクが貼ってありますが、まずは手始めに「コーヒー豆」を開きます。

「コーヒー豆はを菓子としてチョコレートでコーティングする(同ページから引用)」なんて面白いことが書いてあるのでここから「チョコレート」に飛んでみましょう。

「チョコレートはカカオからできている」(同ページから引用)とありますので「カカオ」のページを開いてみましょう。

「カカオの由来はギリシャ語で神の食べ物」とかっこよさそうなことが書いてあり、

「ギリシャ」にリンクが貼ってあるので「ギリシャ」に飛びましょう。ギリシャの国のページが出てきました。

「ギリシャ自体は民主主義、西洋哲学、近代オリンピック、西洋文学[2]、歴史学、政治学、主要な科学的及び数学的原理、悲劇及び喜劇などのドラマの発祥地である」(同ページから引用)

お? 「西洋哲学」だなんて単語が出てきましたよ?

では「西洋哲学」のページに行ってみましょう。

「このページでは西洋哲学、すなわち西洋で発展した哲学について解説する」(同ページから引用)

「哲学」という単語が出てきましたね。もちろん「哲学」をクリックします。

 

はい! 「コーヒー」から「哲学」にたどり着くことができました!

 

コーヒー、コーヒー豆、チョコレート、カカオ、ギリシャ、西洋哲学、哲学と経て、

「コーヒー」と「哲学」なんて全然関係ない単語同士がつながってしまいました!

これが六次の隔たりです。

 

どうですか?

これを読んでいる皆様も、ウィキペディアを使って六次の隔たりゲームをしてみるのもいかがでしょう?

水槽の脳とは?

  • 水槽の脳とは?

水槽の脳とは、思考実験のひとつです。

正しい知識とは何か、意識とはいったい何なのか、といった問題、

そして言葉の意味や事物の実在性といった問題を議論する際に使用されるものです。

「水槽の中の脳」、「培養槽に浮かぶ脳」、「桶の中の脳」、「水槽脳仮説」などともいわれています。

ややこしいので、順番に解説していきたいと思います。

 

■思考実験って?

思考実験とは、実際にやるのではなく、頭の中だけで想像して考えた実験のことです。

化学の基礎原理に反しない限りで、極端に単純化、簡易化された状況で想像するものです。

たとえば、「ものが滑って移動する」ということを考えると、

実際は摩擦だとか表面の小さなデコボコなどで減速したり停止したりしますが、

思考実験の中だとそういった摩擦だとか何だとかの要素は全部除外され、

「(壁などにぶつかるまで)ずっと滑り続ける」ようになります。

そういったちょっとおかしな想像の世界で行われるのが思考実験というものです。

 

■水槽に浮かぶ脳みそ

水槽の脳とは、

あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか

というものです。

現実とは、水槽の中で電極につながれている脳が見ている幻覚ではないでしょうか?

 

■似た説話

水槽の脳と似た内容のものは、他にたくさんあります。

 

中国の昔の偉人、荘子の説話にはこうあります。

「夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、

はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか」

 

これもまさに、水槽の脳と同じことです。

荘子の説話は最終的に「蝶も人間も同じ自分であり、自分が蝶か人間かは些細な問題である」

という結論に導かれるのですが、そこはちょっと置いておきましょう。

「蝶になった夢を見ていたのか、蝶が見ている夢なのか」という部分だけ見てくださいね。

また、ややネタバレになってしまいますが、

映画「マトリックス」も機械によって水槽に漬けられた脳が見ている仮想現実という設定となっています。

最近では「VR技術でオンラインゲームの世界に」といった内容のライトノベルなんかもこれらに含まれると思います。

この世界はシミュレーションゲームで、誰かが操作しているものにすぎないなんて仮説も「水槽の脳」から派生した考え方です。

 

実際に認識しているこの世界は虚構なのかもしれない。そう考えるとゾクゾクしませんか?

 

でもこの世界が水槽の脳が見ている夢だとするなら、もうちょっといい夢見てほしいなぁって思います。

年収何億円のイケメン美女の悠々自適生活とか…そういう夢を見てほしいなぁ…。

スワンプマンとは?

  • スワンプマンとは?

スワンプマンとは、1987年にアメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンが考案した思考実験のことです。

「思考などの心の状態や発話の内容を主体がその時とっている内的な状態だけでなく、

来歴にも依存するものとして捉える彼の理論への可能な反論」として提唱されたものですが、

なんのことだ?と首を傾げたくなったと思いますので、順に解説していきたいと思います。

 

  • 思考実験って?

思考実験とは、実際にやるのではなく、頭の中だけで想像して考えた実験のことです。

化学の基礎原理に反しない限りで、極端に単純化、簡易化された状況で想像するものです。

たとえば、「ものが滑って移動する」ということを考えると、

実際は摩擦だとか表面の小さなデコボコなどで減速したり停止したりしますが、

思考実験の中だとそういった摩擦だとか何だとかの要素は全部除外され、

「(壁などにぶつかるまで)ずっと滑り続ける」ようになります。

そういったちょっとおかしな想像の世界で行われるのが思考実験というものです。

 

  • 沼の男

とある男が散歩に出かけました。

しかしその道中、この男性は不幸なことに、沼のそばで突然雷に打たれて死んでしまいました。

その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちました。

不思議なことに、この落雷は沼の泥と化学反応を引き起こし、

まるでコピーのように死んだ男性と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまったのです。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)といいます。

スワンプマンは死ぬ直前の男性と肉体的に同じであり、見かけも全く同じものです。

落雷によって死んだ男性の生前の脳の状態も完全なるコピーになっていますので、記憶も知識も全く同じです。

沼を後にしたスワンプマンは、落雷で死んだ男性の姿で街に帰っていきます。

そしてスワンプマンはコピー元である男性の人生を歩み始めるのです。

 

というのが、スワンプマンの内容となっています。

さて、このスワンプマンは死んだ男性と同一人物であるといえるでしょうか?

 

  • 同一性の問題

これは同一性の問題です。

同一性とは、この場合「男性とスワンプマンは同じものか?」ということです。

内臓や脳など、肉体の組織的にはまったく同じものであり、記憶なども引き継いでいます。

なので男性とスワンプマンは同一人物であるといえます。

しかし、個体としては別なので男性とスワンプマンは別人であるともいえます。

これを読んでいる読者の皆様はどう思いますか?

同じような同一性の思考実験に「テセウスの船」というものがあります。

テセウスの船については別記事で解説していますので、そちらを参考にしてくださいね。

トロッコ問題とは?

  • トロッコ問題

トロッコ問題とは、倫理学の哲学のひとつです。

倫理的な内容を議論する道徳心理学に分類されている問題です。

人間がどのように道徳的なジレンマを解決するかという議題として登場します。

 

  • 道徳心理学

 

道徳心理学とは、道徳的な心理に対する哲学です。

「対立する物事に板挟みにされた時、どうやって解決するのか?」ということを論ずるものです。

 

そもそも道徳とは何でしょうか。

道徳とは、規則と規範が合わさったものといわれています。

と、言われてもよくわからないので、具体的に説明していきましょう。

規則とは、いわば法律です。

殺人や窃盗など、正義や幸福に関する絶対的なルールのことです。

このルールはどの社会でも変わりません。

殺人や窃盗が許される国なんてありませんからね。

では規範とは、社会(コミュニティ)の慣習や伝統によって大きく変わるルールのことです。

人を呼び捨てにするなだとか、信号は手を挙げて渡りましょうとか

「法律でどうこう言われていないがそうするのが望ましい」というようなものを規範といいます。

そして、規則と規範が合わさったものが、道徳とされています。

 

トロッコ問題はその道徳に対する問題です。

 

  • 轢かれる人数

では具体的に、トロッコ問題とはどのような問題でしょうか。

まず前提として、

・線路があり、制御不能となったトロッコが走っている。

・このまま真っ直ぐ走れば線路上にいる5人が轢かれて死んでしまう。

・しかし線路の分岐を切り替え、トロッコを別路線に引き込めば5人は助かる。

・だが、別路線の先にも作業員が1人おり、トロッコを別路線に引き込めばその1人が死ぬ。

・この問題を読んでいるあなたは線路の分岐を切り替えるスイッチの前に立っている。

という状況です。

 

 

あなたは5人の命を救うため、1人を犠牲にするべきでしょうか?

というのがトロッコ問題です。

この時、法的な責任どうこうは関係なく、道徳的な見解だけが議題です。

5人の命を救うために1人を犠牲にするのは「許される」のか「許されない」のかを問うています。

 

  • 派生問題

他にも、このトロッコ問題から派生した問題があります。

・線路があり、制御不能となったトロッコが走っている。

・このまま真っ直ぐ走れば線路上にいる5人が轢かれて死んでしまう。

という部分は同じです。しかし条件が変わるのはここからで、

・この問題を読んでいるあなたは橋の上におり、あなたの隣には作業員が1人いる。

・この作業員を橋の上から突き落とし線路の上に落とせば、トロッコは止まり5人は助かる。

しかし突き落とされた作業員は死んでしまう。

という条件になります。

線路の分岐を切り替えて別路線に引き込むくだりはありません。

 

さて、あなたの5人を救うため、作業員を突き落として犠牲にするべきでしょうか?

 

  • 合理的か、非情的か

多くの人が「5人を助けるために線路の分岐を切り替え、1人を殺すのは許される」と答えます。

しかし派生問題に対しては「5人を助けるために作業員を突き落とすのは許されない」と答えています。

どちらも「5人を助けるために1人を犠牲にする」ということは変わりません。

それでも前者と後者に許される、許されないの差が出てきてしまいます。

それはなぜでしょうか。

その答えは、自分の手で直接他者を殺してしまうか否かにあります。

前者の質問に対しては、あくまで行動自体は「線路の切り替え」であり、

犠牲となった1人に直接手を下したわけではありません。

そうなると結果を承知の上でやったことだとしても、自分が直接やったわけではないため、心理的な抵抗が小さいのです。

一方後者では、「橋の上から突き落とす」という直接的な行動が必要であり、心理的な抵抗が大きいのです。

 

  • どうするべきか

トロッコ問題は非常に難しい問題であり、正解はありません。

緊急避難や正当防衛といったように、「他にどうしようもなかったから仕方ない」と許すような法律はありません。

だからこそ、どうするのか。

この問題が提唱された1950年代から現代に至るまで、トロッコ問題は議論されています。

 

果たして、どうなんでしょうか?

カルネアデスの板とは?

  • カルネアデスの板?

カルネアデスの板とは、古代ギリシャの哲学者のカルネアデスさんが出したと言われている問題です。

「カルネアデスの舟板」とも呼ばれています。

倫理的な物事に切り込む問題となっています。

 

  • それは古代の寓話

話は古代ギリシャの時代。

一隻の船が難破し、乗っていた人たちは全員海に投げ出されてしまいました。

海に投げ出されてしまった一人の男が命からがら、

どうにか浮いていた板切れにしがみつき、浮き輪代わりにしようとしました。

するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする人がやってきました。

板が浮き輪の代わりになれるのはせいぜい一人まで。

二人が板に掴まれば、板そのものが沈んでしまいます。

男は、自分だけが助かろうと後から来た人を突き飛ばしました。

その結果、後から来た人は溺れ、死んでしまいました。

 

以上の寓話を元に、自分が助かるために他者を犠牲にしたこの男は有罪か無罪か?

というのがカルネアデスの板の問題です。

自分が板から手を離し、板を渡せば自分は死んでしまうでしょう。

どちらも板に掴まれば板は沈み、どちらも助からなかったでしょう。

では自分が助かるために他者を殺すのは正しいのでしょうか?

 

  • 緊急避難

現代の日本の法律では、「緊急避難」としてこの殺人は罪に問われないことになっています。

「自分が助かるために他者を犠牲にせざるを得なかった、他にどうしようもなかったんだ、仕方ない」ということです。

 

しばし、カルネアデスの板の寓話は緊急避難の例として引用されます。

 

  • 題材にした作品

ミステリーなどではこのカルネアデスの板のように、緊急避難を題材にした作品が多くあります。

 

漫画「金田一少年の事件簿」内の悲恋湖伝説殺人事件では、

事件の3年前に起こった船の沈没事故にて、犯人の恋人はボートに乗せてもらえず死亡。

彼女をボートに乗せることを拒んだ人物の回想や事件の真相解明時に「カルネアデスの板」がモチーフにされています。

 

  • どうする?

 

これを呼んだ皆さんはどう思うでしょうか?

「緊急避難だから正当だ、仕方ない」と思うでしょうか。

それとも「どんな緊急時であれ人命は尊ぶべきであり、殺人などもってのほかだ」と思うでしょうか。

 

果たしてどちらが正しいのか。

ちなみに、元となった寓話では、

自分が助かるために他者を突き飛ばして殺した男は殺人罪として裁判にかけられたものの、罪には問われませんでした。

 

倫理的な問題って難しいですよね。

 

ところで素朴な疑問なのですが、板切れって浮き輪代わりになるほど浮くんですかね?

ただの木の板なんて一人が掴まっただけでも沈みそうなものですけど…。

 

ものすごく浮く板でもあったんでしょうか…?