砂山のパラドックスとは?

  • なにそれ?

砂山のパラドックスとは、パラドックスの一種です。

ギリシャ語では「堆積物のパラドックス」と呼ばれています。

述語の曖昧性から生じるパラドックスであり、言葉の定義について疑問を投げかける命題となっています。

述語の曖昧性と言われてもよくわからないと思いますので、順番に整理してみます。

 

 

  • そもそもパラドックスとは?

パラドックスとは、逆説、背理、逆理とも言われるもののことです。

正しそうに見える前提と、妥当に見える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す言葉のことです。

「直感的に矛盾していると思うが、でもよくよく道筋を立てて考えてみたら筋が通っていて矛盾していない」

というようなものがパラドックスです。

一見、「なんか間違っているような…」と思うものの、

どう間違っていると感じたか説明しているうちに

「あれ? 合ってるじゃないか」と結論を受け入れてしまうことや、受け入れてしまえる理論のことです。

 

  • 述語の曖昧性?

相対的で定義がはっきりしない「言語哲学」というものに属する問題です。

数学では「三角形とは3つの角からなる図形である」といったようにすべての用語が明確な定義を持っています。

言語哲学とは、定義不能の不明確な概念に対してはっきりと定義を適用するためのものです。

たとえば「ここにパソコンがあります」という言葉に

「パソコンというがそれはデスクトップ型なのかノートパソコンなのかタブレットなのか?」と

「パソコン」という単語に定義をつけようとしているのが言語哲学です。

 

砂山のパラドックスは、そういった言語哲学につきまとう問題を示した内容です。

 

  • 砂の山というもの

ここに砂の山がひとつあります。

どんな大きさでもいいので砂の山と言われてイメージするものを想像してみてください。

公園の砂場に作った山でも、海岸の砂浜に作った砂でも、どんなものでも構いません。

その砂の山から砂ひと粒を取り去ってみてください。

砂山はまだ山でしょうか? 砂の粒がとんでもなく大きくない限りはまだ山だと思います。

では、そこからもうひと粒を取り除いてください。まだ山ですね?

それではまたひと粒。またひと粒。どんどん取り除いていってください。

ずっと続けていくといつしか山は半分になり、そのまた半分になり…とどんどん体積が少なくなっていきますね?

最初に比べて小さくなりましたが、まだ山といえる形だと思います。

まだまだ続けてください。

残りの砂1000粒、900粒、800…100…50…10…5…と続けて残り1粒になってしまいました。

ではこれは「砂の山」でしょうか?

当然、山とは言えませんよね。ではどこからが「砂の山」なのでしょうか?

砂2粒があれば「砂の山」でしょうか?

10粒ですか?

50粒ですか?

「砂の山」の定義の境界線はいったいどこにあるのでしょうか?

 

「砂山とは膨大な砂粒からできているものである」

「砂山から砂粒を1つ取り除いても、それは依然として砂山のままである」

という定義を突き詰めていった結果、

「最終的に砂ひと粒だけが残るが、砂ひと粒では砂山とはいえない」という矛盾が出てきます。

これが砂山のパラドックスです。

 

  • でも砂山に違いはない

この矛盾を矛盾ではなくさせる方法は主に3つあります。

「そもそも砂の粒が集まったものを山と呼ばない」ということで、

「砂山とは、膨大な砂粒からできているものである」という前提を崩す方法です。

前提条件の言葉の定義からやり直すということですね。

「砂山」ではなく「砂の集積物」であれば砂1000粒だろうが砂10粒だろうと変わらないという極論です。

もうひとつは、「砂ひと粒を取り除いた時、必ずしも砂山のままではない」と主張することで

「砂山から砂粒を1つ取り除いても、それは依然として砂山のままである」という前提を否定することです。

「砂を取った瞬間に山が崩れて平べったくなれば山じゃなくなるからこの前提は崩れる!」ということです。

最後の方法は、「砂ひと粒でも砂山は砂山です」と結果を肯定することです。

 

このパラドックスには正解はありません。

哲学というものは正解を導き出す学問ではありませんからね。

重大なのはどういう過程を経てその結論にたどり着いたかです。

筋が通っていれば、屁理屈だろうと極論だろうと回答として認められるのが哲学です。

 

これを読んだ皆さんはどういう結論を出したでしょうか?

筆者は考えているうちに「砂山…砂山ってなんだ…?」と混乱してきました。

 

砂山って一体何なんだ!

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