
- テセウスの船とは?
テセウスの船とは、パラドックスのひとつです。
「テセウスのパラドックス」とも呼ばれています。
「あるオブジェクトの構成要素がすべて置き換えられた時、アイデンティティが同一であると言えるのか」
という問題のことです。
と、言われても何のことかよくわからないと思うので、順に噛み砕いていきましょう。
- パラドックスとは?
パラドックスとは、逆説、背理、逆理とも言われるもののことです。
正しそうに見える前提と、妥当に見える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す言葉のことです。
「直感的に矛盾していると思うが、でもよくよく道筋を立てて考えてみたら筋が通っていて矛盾していない」
というようなものがパラドックスです。
一見、「なんか間違っているような…」と思うものの、
どう間違っていると感じたか説明しているうちに
「あれ? 合ってるじゃないか」
と結論を受け入れてしまうことや、受け入れてしまえる理論のことです。
- アイデンティティとは?
「存在意義」などと翻訳されがちですが、哲学の世界では「同一性」と訳されます。
「AとBは同じものであるか?」という要素です。
見た目が同じであるというのは「外見のアイデンティティが一致している」と言われますし、
本質が同じであれば「本質のアイデンティティが一致している」と言われます。
わかりやすく言うと、
「味噌も醤油も豆腐も大豆からできている!だから全部同じものだ!」
という理論がありますが、あれが哲学の世界のアイデンティティです。
- テセウスの船
昔、ギリシャにテセウスさんという人がいました。
テセウスさんは一艘の船を新しく買って持っていました。
ある日、嵐で船の帆が破れてしまいました。
テセウスさんは破れてしまった帆を捨て、新しい布で帆を張り直しました。
またある日、甲板の板が雨で腐っていたのを見つけたテセウスさんは、
腐った板を外して新しい板を打ち付けました。
舵取りのための舵輪もついでに新しいものに替えました。
またまたある日。嵐に巻き込まれてしまったテセウスさんの船は座礁し、
船底に大穴が空いてしまったので大修理を行い、船底の木材を全部替えました。
こうして、テセウスさんの船は時間をかけながらも、すべての部品が新品に置き換わりました。
テセウスさんが船を買った時にあった部品は、もう船からありません。
帆も甲板も舵輪も船底の木の板も全部交換したので、船を買った時の部品は何一つありません。
それでも、この船は買った時のものと同じ船でしょうか。
そして、交換した古く壊れてしまった部品をすべて集めれば一艘の船ができるはずです。
帆も甲板も舵輪も船底の木の板も全部ありますからね。
壊れてしまっているので実際に動くかはさておき、
パーツとしてはすべて揃っているので、組み立てれば船が一艘できます。
その場合、どちらが「テセウスさんの船」なんでしょうか?
というのが「テセウスの船」のパラドックスです。
- よくわからない
船とはまた違うものですが、本質は同じなのでもっとわかりやすい例を持ってきました。
ここに「わたし」がいます。
パソコンばかりやっていて肩こりと腰痛がひどいですが、五体満足の「わたし」です。
読者のみなさまも、「自分」に置き換えてください。
ある日不幸な事故で「わたし」は両手両足を失い、義手義足になってしまいました。
入院生活中の健康診断で内臓に病気があることがわかりました。
奇跡的にドナーがすぐ見つかり、臓器提供を受けることができました。
「わたし」の内臓はドナーが提供してくれた内臓に交換されました。
そしてある日、入院している病院が火災になり、
「わたし」は全身に大火傷を負って人工皮膚を移植することになりました。
さて、すっかり変わり果ててしまった「わたし」ですが、
この「わたし」は五体満足だった頃の「わたし」と同じ「わたし」でしょうか?
記憶や意識が続いているから同じでしょうか?
それとも、五体満足であった頃と別の「なにか」でしょうか?
- 結論は?
結論は哲学者により様々で、正解はありません。
というより、哲学というものは正解を導き出すためのものではなく、
その結論に至るまでを重視する学問なので、正解は二の次です。
テセウスの船が同じものだという哲学者もいれば、違うという哲学者もいます。
同じ派でも「なぜ同じものなのか」、違う派でも「なぜ違うものなのか」というのは十人十色です。
「テセウスさんが持っている船に変わりはないんだからこれは同じ船だ」という人もいれば、
「船の設計が変わっているわけではないんだから同じ船だ」という人もいます。
「部品が変わっているから違う船だ」という人もいます。
大事なのは、自分がどう考え、その結論に至ったかです。
深夜に考えると眠れなくなるのでやめておいたほうがいいですよ!(実話)